3月の水

3月の水

この季節になると
いつも聴きたくなる一曲。






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通勤の途中で その3

10年後ははたして


オフィスに向かう途中の
林立するタワーマンションの
谷間のバス亭。

ムートンのコートを着たママが
何やら学校の課題の
ダンスのステップのような
ぴょんぴょんと
制服のまま練習している
小学生の子に
檄をとばしていた。

「また間違えた!
何度も同じこといわせない!!」

その子は半べそで
必死で練習を続ける。

「人生なんて
未来なんて自分の努力で
なんとでも変えられるんだからね!
甘ったれるんじゃないよ」

そ、そこまで言うか?!

ママ友や、ご近所さんとかには
死んでも見せないであろう
鬼の形相だった。

自分の子どもが
何かをなしえない
なんて
許せないわよ
ありえないわよ
出来て当然よ。
そのプライドの高さは
子育てに、ある意味必要かも
しれないのだが
私は言われている子の
けなげすぎる必死の表情に、
胸が張り裂けそうになった。

小さいうちから
ストレスにさらされまくって
成長していくのは
厳しかろうとは
余計な外野のお世話かもしれぬ。

人より
一歩でも先んじるを
よしとする育てられ方が
マウンティングなんて
ぞっとしない言い方を
産み出したのだろうか。

子どもだって
ストレス解消は必要なのだ。
時に、それは本当に残酷な
解消法で、ともだちや仲間や
年下の子とかに
情け容赦なくぶつけていたりする。

いじめの問題は
なんのことはない。
おとなを映した鏡。
ただのレプリカ。
縮図にすぎない。

必死に練習する子は
10年後にどんな少女に
なっているのだろう....。

通勤の途中で その2

なんとかしろー

地下鉄でつり革にぶらさがっていると
向かいの優先席が空いた。
混みあっていたので、すとんと
腰を下ろし文庫本を広げた。

ふたつ駅が進んで
どやどやと乗換のひとびとで
かなりぎゅうづめになった。
すると目の前にかなり
お腹の大きな女性がいたので
「どうぞ」と
声をかけて立ち上がると
ものすごい勢いで
その女性の隣に立っていた
となりのおじさんが
座ってしまったので
「あの、この方に...」と
言ったら、
「私は義足なんでね!」
とスラックスを
膝の上までしっかりとめくりあげ
にらみつけられてしまった。

たまたまだが
こういうときに
スマートに表情なり
コメントで切り替えしが
効くならば
まあ、今までの人生
さほど苦労はしておらなんだ。

「すみませんね」と
そっと女性に声をかけると
いえいえという感じで
微苦笑してくれたが、
義足の方のとなりに
陣取って座っている
メタボっぽい
二人のおっさんは
完璧にしかとしていた。

私が下車する駅までの間
間の悪さのやつあたりもかねて
声なき声で
そのおっさんたちを罵倒し続けたのは
言うまでもない。


ははは


通勤の途中で その1

目撃


私は見た。
一部始終を。
ガタン、ゴトンと
電車のドアにもたれながら。
まるで一幕の芝居だった。
出演は3人の
小学生の女の子たち。
お揃いの制服にランドセル。

ひとりの一番背の高い
おとなびた顔立ちの女の子が
ひとりの子を従え
色白の気の弱そうな子に
「一緒に帰りたくないの?
そうならはっきりと言いなさいよ。
言いなさい。
一緒に帰りたくないってはっきり」

その口ぶりに慄然とする。
柔かく、冷たく
ねちねちと底意地の悪い
その言いようは
7~8歳の子とは思えない。
見据えた目の
残酷な光を
私はあらぬ方向をむきながら
視界の片隅で、見逃せなかった。

言われている子は
懸命に歯をくいしばり
何も言い返さずに
うつむいて
こらえている。

「何にも言わないの?
じゃあいいわよ。
あっち、行きましょ」と
促して車両の一番端の
出口にふたりして
歩きだした。

見送る子の左右の眼から
一粒ずつ涙がもりあがり
ゆっくり
ひとすじずつ真っ白な
やわらかいほほを伝って
顎の先で合流する。

たまたま近くで一部始終を
見聞きしてしまったわたし。
胸をしめつけられるような
気持ちになる。

二つ先の駅で、
意を決したように
トコトコとその子は二人を
追って歩きだした。
内心ハラハラしていると
背の高い子はどうやら
降りてしまったようで、
家来の女の子と二人
頭をくっつけあって
内緒ばなしのように
楽しそうに話している。

何だかホッとした。

それにしてもよほど
強いストレスがあるのだろうか。
背の高い子のものいいと
いたぶり方には畏れ入った。
ひとの
こどもの
おんなの
身震いするほどの
残酷さ。

私はまだ見ぬ先の物語まで、
電車が渡る鉄橋の下の
夕陽を反射する水面を見ながら
想像をたくましくすることを
がまんできなかったが、
そのとき 「はあっ」と
ひとつ大きなため息を聞いた。

ドアの反対側に立っていた
高校生のひとりの男の子も
私と同じ一部始終を
目撃していたのだった。
彼が感じた何かは
私とはまた別のものかもしれない。

ふたりの観客は
同じ駅で降りると、
それぞれ反対側の方向に
歩き出した。
おそらく
それぞれがたまたまみた
一場を反芻しながら。




卒業

教わる、教えられる関係について


約1年、ネイティブの先生について
英語を学んだ。
とても貴重な時間と経験を
得ることができたと思う。
何かを学ぼうとするとき
良き師との出会いは最良の実りであり
このひとと思えるひとに出会えたとき
その幸運に感謝できるのは
何よりのさいわいだ。

彼はすでに教えることに
豊かな経験を持っていた。
卒業に際してとても素敵な言葉を
贈ってくれた。

「これはお世辞ではないとまず
ことわっておきたい。
君を教えるようになって
初めてこの仕事の面白さや
自分にとっての意義を
再発見したと思う。
ありがとう」

不肖の弟子として
ありがたすぎるメッセージに
心から感謝した。

教わるということは
真面目さ、勤勉さは大切だが
自分が解らないことを
全力でぶつけていくなかで
自分の強みや弱みを真剣に
見つけだし
場合によっては、次の場所に
自分から歩きださねば
ならないときもある。
それが見極められることも
幸福のひとつだ。
場合によってはさらに荒涼とした
厳しい道でも
怖れず進むことを選べる
教え方をしてくれた師は
ひとにとって
本当の教師なのだろう。

古来から弟子は教師を超えていければ
最良とされるが
その本当の意味は、
弟子が自分の道を見出し
卒業を選べるという区切りがある
ということではないだろうか。
それは終わりで断ちきられる関係ではなく
新しい関係のはじまりとなる。
教わる以上
必ず成長と上達は
弟子にとって必須だ。
教わっていることへの依存や甘え
卒業なき永遠は
ただの地獄かもしれない。



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