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歴史が動いた日

後世の憂いとならぬように


可決。

ベッドに寝たきりの父は
このニュースをどんな思いで聞いたのだろう。
父は、絶滅寸前の恐竜と同じ。
最後の戦中派と呼ばれる世代だ。
あの8月の終わりの日がなければ
8月の末に生まれた父は、規定の年齢に達し
戦地に赴いていたはずで、
もしかしたら、私はこの世に誕生していない。

深刻な脳のダメージを負い
生死の淵をさまよい
意識が戻った後、ドクターのチェックを
受けたときのこと。
記憶障害を確認するため、「何か思い出すことは
ありますか?」との問いに何を答えたか。
それを聞かされて、私と母は絶句してしまった。
神武からはじまる歴代の天皇陛下のお名前と、
戦陣訓(「「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」)
を、よどみなくすらすらと、暗唱してみせたのだ。
50年以上連れ添った母の名前は
最初は出なかったのに・・・。

父はそういう教育を、国から与えられ
必死に生き抜いてきた。
その父が、ニュースを見ながら
議場の国会議員たちに向かい
ぽつりとつぶやく。
「もう一度、全て焼野原にならねば
わからないのか。
自分の子や、孫の命を差し出せるものか。
あってはならんことだ」。
東京大空襲の焼夷弾の雨の音の恐怖は
いまだに忘れられないそうだ。
祖母と乳飲み子だった伯母を
粗末な大八車にわずかな身の回りの
ものと載せて、
火の海になった東京の下町から
取手方面に脱出し、
食糧難の中、この疎開先で暮らした。

すでに故人となった義父は
当時勤務していた満州鉄道から
現地で召集され、終戦後シベリアに抑留された。
戦争が終わって4年後。
奇跡的に、故郷の地を踏んだ。
義父の寝室兼仏間には、昭和天皇ご夫妻と
ご一家のセピア色の写真が、亡くなるまで
賞状などと並んで掲げられていた。
実の息子たちには話していない
抑留時の体験の幾つかを、
まだ歩ける前の娘の顔を見せに行ったとき
いとおしそうに孫をそっと抱きしめ
私に話している。
「何人もの仲間が、朝起きると二度と
目覚めなかった。
息をひきとるときは、みな「おかあさん」と
ひとこと残して亡くなっていった。
二度と戦争だけはしてはならない」。
集まれるひとが、5人ほどになるまで
毎年の夏、必ず戦友会に出かけ
車の中でかける音楽は軍歌だけ。

父も、義父も
真の愛国者だと
私は確信する。
右でも、左でもなく、ど真ん中ストレートの
ふたりの愛国者は
二度と日本は戦争という道を
選ぶことのないようにという
揺るがない断固とした願いを持っている。



次の選挙で、名もなき民
最後の戦中派、そしてその末裔たちが
どのように答えをとどけるだろう。
この日が、歴史の後世の憂いと
なることのないようにとのみ。



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